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奈良先端大はなぜ山中伸弥さんに去られたのか。   

 山中さんは市大の研究環境に絶望して研究の道を断念しようとし、いわば「研究卒業記念」のようなつもりで奈良先端科学技術大学院大学(以下、先端大)の研究者募集に応募して合格し、設備(施設・装置)・資金・スタッフの面ではアメリカの研究所と同様の満たされた研究環境をもつ先端大に入って研究を続けました。しかし、やがてそこを出て京大に移りました。そのとき、先端大の学長はかなり引き留めましたが、山中さんは出ていきました。山中さんは先端大の求めを振り切ったのです。

 先端大が学研高山第1工区(以下、第1工区)に設置されようとしたとき(法律上の開学1991年10月/開講1993年4月)、生駒市の市民運動の源流をなす第1工区の環境保全運動が起こりました。その際に指摘されたのが、第1工区への先端大の設置は、良質な研究所の設置条件を満たしていないのではということでした。良質な研究所の設置条件とは、自由・斬新・卓越・独創的な発想・技術手法を生み出す環境を持つことで、①人をやさしく包む自然(第1工区のように、里山を機械的に更地にし、その周りには里山=自然が残されています、というようなことを意味しません)、②人を高みに引き上げるような文化、③地域の人々の暖かい視線(愛情) に恵まれた場所であることです。先端大の設置には、これらが欠けているのではと指摘されたのです(これとの関連で<追伸2>を下記しました)。特に重要な③でいえば、地域の人々は住民・先端大・生駒市の3者で安全協定を締結することを必死で求めましたが、先端大は生駒市とだけの2者協定しか締結しませんでした。先端大は住民の求めを振り切ったのです。

 山中さんが「先端大にいたのでは・・・・・」と思われた理由はここにあるのではと思います。山中さんは、良質な研究所の設置条件をかなり満たしている京大に研究仲間を率いて移られました。かつて先端大が住民の求めを振り切っていなければ、山中さんは先端大の求めを振り切ることなく先端大で研究を続けられたでしょう(先端大の方々は、山中さんは先端大での研究成果でノーベル賞を受賞したのだ、と述べますが、それは負け惜しみにしか聞こえません)。

<追伸1>

 先端大が実験の安全性に疎い研究機関であることは、先端大で研究していた当時に山中さんが、倫理委員会の設立を呼びかけたが進まなかったことでもわかります(それも山中さんが先端大を去った原因となりました)<ご参照ご参照>。なお、先端大は10(H22)年4月には、遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律 第12条等に違反する事件を惹起しています(学研高山第1工区 時事情報(経過)ご参照)。

<追伸2>

 この視点で見ると、①自然(緑豊かな山に囲まれた町)②文化(農業林業文化)③愛情(多様性を許容する懐の深い人々の眼差し)の3つが、何か新しいことが生まれそうなポジティブな空気が流れているクリエーティブな場をつくりだしたことが、徳島県神山町が「グリーンバレー」になった(徳島県神山町の挑戦ご参照)理由といえます。

*グリー

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