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鷹山氏 

          <お断り:鷹山氏にかかる事柄には諸説ある、不明確である、等のものもありますが、筋が通るように心がけて記述しました。が、             なお、随時に添削する予定です。>

興り・・・鷹山氏の出自ははっきりしていないで、次の2つの説があり、定説はない。

 ①恐らく、初代の頭領とみなしてよい頼栄よりさかは、応仁の乱(14671477)に敗れた山名宗全あたりの有力な武将の一人で、家臣を引き連れて京都から興福寺が事実上の守護職を務めていた大和国の北部の鷹(高)山谷(現生駒市最北部)の鷹山荘(興福寺一乗院の荘園)の地に落ちのび、地名の鷹山をそのままとって鷹山氏を名乗ってこの地に定着して、鷹山荘の一乗院方衆徒(=僧兵)の頭領として台頭し、下剋上(=世直し)の機運が高まりつつある中、1470年に塁とりで(これが高山城の始まり/高山城の構造.pdf)を築いて、この地を「荘園制度に基づく興福寺の支配」より離脱せしめながらこの地に地方武士として君臨した。これが鷹山氏の興りと考えられる。庄田に住む無足人座の谷村頼基氏宅に伝わる「高山家由緒軍功記」には、高山氏は源頼光(九四八~一〇二八)の後裔と名乗る地侍の左近大輔二郎頼重が当地に移住し、地名を姓としたのが、そもそもの初まりであるとされでいるが、初代の頼重や彼以後の人物の事績については何ら伝承が残っていない。また彼等の墓所の所在すらわからないので、これは後世の偽作と考えられ、源氏後裔説には組しがたい。高山の坊殿(ぼうどん)に高山氏の墓所があるが、明応九年(一五〇〇年)残銘の頼栄の五輪塔が最も古いことや、奈良・輿福院に伝来する「高山氏系図」などから推測すると、高山氏の始祖は明らかに頼栄で、高山氏は頼栄から始まったものと考えて差支えないと思う。この説は、この論文<(Ⅰ)(Ⅱ)>等と「生駒市誌」添付年表が「鷹山氏初代頼栄が1470年に高山城を築く」としていることを参考に記述。

 ②上鳥見庄かみつとりみしょう(現生駒市上町・鹿畑町とその周辺)の荘園領主であった興福寺大乗院が残した記録として『大乗院寺社雑事記』 があり、その中の「大乗院日記目録」の文安元(1444)の条には「高山奥」や「高山合力」、康生元(1455)年の条には「高山奥頼弘」、同じく『大乗院寺社雑事記』の康生3(1457)年の条の「一乗院家御坊人名字依次有記之」に「鷹山奥」、という鷹山氏と思われる名前がそれぞれ記載されているので、応仁の乱以前より高山氏は 鷹(高)山谷に存在していたと考えられる。しかし、古文書の中にそれを裏付けると確証できる系図はなく、なにより、鷹山氏の菩提寺であった円楽寺には➀の説が初代とする頼栄以前の墓跡がない。

 *鷹山氏の興りについての➀や➁の記述は、「鷹山(高山)氏」についての「生駒市誌」本文の記述とは異なる点もあります。

当主・系図・・・異なる諸説あり

 ①<「生駒市誌 Ⅴ」添付年表/「生駒の歴史と文化」 >初代頼栄1500没)、二代頼秀(1504没)、三代頼春(1540または1551)、四代頼宗1519没)、五代?頼慶(1523没)、六代弘頼1553河内の高島古市城で自刃)、七代?頼貞1579摂津の有岡城に討死/弟の頼盛も1580関東で討死)、頼園 (1570没)

  wikipediaでは連歌師の宗砌そうぜい は、没年が1455年(享年は70前後とみられる)としながら、没年が1500年の頼栄の次男であるという、矛盾した記述がなされていますが、「生駒市誌 Ⅴ」には「頼春のとき之(引用者:茶筌)を朝廷に献じて好評を拍し」とあり、「同 Ⅰ」には「郷土史家には宗砌そうせつは頼春(引用者:頼栄の次男 )の号であって、連歌の宗砌そうぜいとは別人とするむきもある」とあるように、茶筌を考案した宗砌そうせつは、連歌師の宗砌そうぜいとは別人です。  

 ②<円楽寺の鷹山氏の墓跡>頼栄(1500没<以下、同じ>)、頼宗(1519)、?(1543) 頼春(1551) 、弘頼(1553) 、頼盛(1580) 、頼茂(1680)、頼忠(1703)、頼安(1719)、頼心(1729)<円楽寺は元禄のころに廃寺

 ③<興福院所蔵鷹山家文書調査報告書 鷹山氏系図写>頼栄-頼秀(弟 頼春)-頼宗-頼慶(弟 頼円-藤宗-次男 頼一)-弘頼頼貞(弟 頼盛)-頼一頼茂(四男 公慶 

 ④<「生駒市誌 Ⅰ P185」に記載の系図 >源頼栄、頼秀、頼春、頼宗、頼慶、頼園、藤宗、宗重、頼一、弘頼頼貞頼盛頼一頼茂  

 ⑤<「生駒市誌 Ⅴ P91」に記載の系図 >頼高(高山の祖)-(略)-頼孝-頼栄-頼秀(弟 頼春)-頼宗-頼慶(弟 頼園-藤宗-次男 頼一<本家の養子となる>)-弘頼頼貞(弟 頼盛)-(養子)頼一頼茂(四男 公慶) 

 ⑥初代頼弘、二代頼栄、三代頼秀、四代頼宗、五代頼慶、六代弘頼、七代(本統の最後)頼貞  この説に立つ系図.jpg正木榮「生駒・高山風土記」(2008)より>

鷹山氏の歴史(お断り:文献に乏しく記述は断片的で箇条書きにならざるを得ません)

鷹山氏は、

戦国時代黎明期(応仁の乱の時期)、この頃に生駒の地を去った生駒氏と交代するように、

生駒の地に、立ち現われ、または、台頭し、つまり、歴史の表舞台に登場し、

大和国侍やまと(の)くにざむらい二十八人衆(戦国時代に大和の国で活躍した28人の地方武士下に注>)の一人として、

大和四家<衆徒の頭目二氏(北部を地盤とし、南北朝時代に北朝を支援した筒井氏南部を地盤とし、同時代に南朝を支援した越智氏

十市とおち・とおいち箸尾氏古市氏の五氏に次ぐ勢力を持つ大和の国衆くにしゅうとして、

疾風怒涛の戦国の世を約100年間、奈良・山城南部・河内北部に通じる交通の要衝たる高山を拠点に、

守護・戦国大名や、大和だけでなく南山城や北河内の地方武士への臣従・連携・離反を繰り返しつつ

主に大和・山城・河内一帯を転戦し、駆け抜けた。

その過程で、生駒の地にあった3荘園(鷹山庄・上鳥見庄・生馬庄)は一掃された。

そして、鷹山氏は、

戦国時代終焉期(安土・桃山時代)、立ち去った(歴史の表舞台からは退場した)。

まさに、荘園制度という公家・大社寺といった古代勢力がつくりだした古い土地支配の仕方を一掃して、

武士による新しい土地支配の仕方を完成させていった(=世直した)戦国の世の申し子だった。

>戦国時代のキーワードの1つである地方武士とは、在地(土着)武士や国侍・土豪ともいい、

小領主(国衆国人こくじん)や地侍じざむらい(半農武士)のことであるが、

中には、筒井氏のように戦国大名にのし上がるものもいた。

<生駒の地にあった3荘園については、生駒検定<全国版><問26>生駒の歴史をご参照>

鷹山氏をとりまく、戦国時代の大和国の状況

については、「生駒市誌 Ⅳ」P.688-689.jpg P.690-691.jpg P.692.jpg をご参照>

<以下、鷹山氏の歴史を箇条書き風に記述>

 ➀室町幕府の管領であった畠山氏では、家督争い(=領地争い)が起きて総州家(主に大和国と河内国に勢力を有した)畠山義就と尾州家(主に紀伊国と越中国に勢力を有した畠山政長に分かれて抗争。これが応仁の乱(1467~1477)を引き起こした。その終了後、1482(文明14)年から、義就と政長は再び戦い、その戦火は大和にも及ぶ。義就派についた国衆は越智氏・古市氏など。政長派には筒井氏・箸尾氏・十市氏・鷹山氏らが加勢した。

   土一揆つちいっき・どいっき(年貢・雑役減免や徳政を求める農民反乱)が激化するようになると、興福寺等の寺社勢力が荘園領主である大和では衆徒がその鎮圧部隊となることが期待されるようになり、それが衆徒の荘園領主からの独立化(地方武士化)の契機となった。

 ②鷹山氏は政長側に加勢しつつ平群谷・生駒谷・鳥見谷などの在所在所を河内勢とともに焼き払った」・・・『大乗院寺社雑事記』の文明14(1482)年12月2日の条

 ③四代?頼宗は、 妻を南田原坂上氏より迎え、山城の乾谷源六郎延広を従えて、鳥見谷・生駒谷に進出した。

 ④①~③のような戦いの中、生駒谷の荘園(生馬庄)と鳥見谷の荘園(鳥見庄)を「荘園制度に基づく興福寺・仁和寺の支配」より離脱せしめたと思われる。 

 ⑤六代?弘頼は、はじめは筒井城筒井順昭(順慶の父) に属したが、のち畠山義就方越智家栄に属し、また筒井家に帰属するなど動向は転変した。1542年の「河内太平寺の戦い」では、細川晴元に属して木沢長政と戦った。1544(天文13)年、 筒井順昭の柳生城(城主柳生家厳)攻めに参陣。1546年、畠山高政から山城上三郡(山城国は、宇治川を境に、南側を上三郡、北側を下五郡に分割されていた)の守護代に任ぜられ、鷹山氏の最盛期を現出し、戦国大名にのし上がる契機(きっかけ)を得たものの、畠山高政内衆の安見宗房らとの確執を生じて、河内の高屋城で自刃に追い込まれた。<この部分、戦国大和国人名事典より一部補正して引用> 

 ⑥七代?頼貞は、1567(永禄10)年、東大寺大仏殿の戦い(信貴山城主松永久秀 VS 三好三人衆筒井順慶) に松永側で参陣。この戦いの中、東大寺が炎上。猛火によって大仏殿は焼失し、大仏は溶け崩れ、頭部は像の背後に落下した。

 ⑦1569(永禄11)年、三好三人衆方の篠原長房に河内国私部郷きさべごう(現在の交野市私部)の領地を安堵あんど(領有権を保障)された。

 ⑧七代頼貞と弟の頼盛は、 1577(天正5)年、信貴山城の戦い(松永久秀は、上杉謙信、毛利輝元、石山本願寺などの反信長勢力と呼応して本願寺攻めから勝手に離脱し信長の命令に背いて信貴山城に立て籠もり対決姿勢を明確に表した。対して信長、嫡男・織田信忠を総大将、筒井順慶軍を主力とした大軍を送り込み、信貴山城を包囲し攻撃)に松永側で参陣し、松永側は敗北。久秀は自害(奇しくもこの日は、10年前に大仏が戦火によって崩壊したのと同じ和暦1010日であった)、頼貞は奈良山中へ、頼盛は関東へ敗走、筒井順慶は高山城を攻撃し、鷹山氏の城を廃止し所領を没収した。その後, 頼貞は伊丹の有岡城へ身を寄せ、そこを信長に攻撃され(有岡城の戦い)、10ヶ月篭城の末、天正7(1579)1015日、総攻撃を受けて頼貞は自害し、4日後に城は陥落(城主の荒木村重92日、夜陰に紛れて尼崎へ脱出していた)。一方、頼盛も、武田勝頼に加担して1580に関東で討死し、鷹山氏の本統(直系) は断絶して本家は没落した。

 ⑨鷹山氏本家が没落したあと、禄を失ったその家臣五十余人は高山に残留し、生業として茶筌の製造を始め、のち、時期は定かではないが無足人(無給の武士の身分の意)座(茶筌師座)を形成して茶筌つくりの匠の技を継承していった。

 ⑩一方、本統(直系)の血統が絶えた鷹山氏は、大和の帯解に養子に出ていた頼円(四代頼宗の子)の孫の1人の頼一よりかずが鷹山一族の末裔として七代?頼貞の養子となり、頼一は生駒の南田原城主坂上清兵衛尊忠の娘と婚姻、生まれた子の頼茂よりしげを坂上氏に託して、長崎島原へ行きそこで1637年に病死。頼茂は、義父に従って1615年の大阪夏の陣に参陣したが敗戦、その後、津山藩主に仕え、のち1633年に丹後の宮津城主の京極氏に身を寄せ、そこで1648年に子をもうける。それが、のちの公慶上人である。<公慶上人については、こちらをご参照>

ご参考・・・生駒検定<全国版><問26>生駒の歴史

ご参照

興福院所蔵鷹山家文書調査報告書

20(R2)年3月に発刊されましたお知らせミラー>/お知らせミラー報道資料.pdf報道記事.jpg)。

生駒市立図書館で借りることができます(ご参照)。

抜粋

高山の地域史.pdf

大和国人鷹山氏の興亡.pdf

)この報告書より

大和国人 鷹山氏<抜粋>.pdf

)この報告書の発行を機に

「戦国武将 生駒・鷹山氏」の特集を組んだ「月刊大和路 ならら」.pdf

 

 

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