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天武天皇の3人の皇子

 40代天皇天武には、10人の男子の子がいた。上から、高市皇子草壁皇子大津皇子忍壁皇子・・・・・。そのうち、上の3人の皇子(父は同じだが母はいずれも異なる )は、以下の通り、すべて、「実力(暴力)=暗殺・謀略死等何らかの強制力」を行使されての死、または、その疑いがある状態での死を余儀なくされた。

 663年生まれの第3子大津皇子は、父の死後約3週間後に謀反の罪で捕えられ翌日自害に追い込まれた(享年24)。

 662年生まれの第2子草壁皇子は、皇太子(次期天皇)であったのに6894月に20歳半ばという若さで死去したにもかかわらず、日本書紀は、「皇太子草壁皇子尊くさかべのみこのみことが薨去こうきょされた。」と記すのみで、「尊みこと」という尊称までつけていた人物であるにもかかわず、その死の原因・経緯等一切記さないことで、明記できないなんらかの強制力があったことを示唆している。

 654年生まれと推定されている第1子の高市皇子の6968月の死についても日本書紀は、「高市皇子尊たけちのみことが薨去された。」と記すのみで、太政大臣まで務め「尊」という尊称までつけていた人物であるにもかかわず、草壁皇子と全く同様であり、明記できないなんらかの強制力があったことを示唆している(言い含められた自害の強制が行われたとの説がある)。現に、高市皇子の死の翌年8月、41代天皇持統)は、二重の異例の行為として、孫(若死した実子の草壁皇子の子)に譲位し42代天皇文武として即位させた。二重の異例の行為とは、➀存命中(持統逝去は703年)の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、②14歳という若さで孫を即位させた、というものである。

 ()天武天皇の皇后は、天武天皇の死(68610月)ののち、長期にわたる殯もがり(死者の本葬までの葬儀儀礼)を続け、わが子を即位させる計画を実行する機会を待ったが、6894月にその子(草壁皇子)が突然に死去してしまい、孫(草壁皇子の子)もまだ幼少(7歳)だったため、計画変更して6902月に自ら持統天皇として即位した。

 しかし、文武天皇も707年に若くして亡くなり、その子(草壁皇子の孫/のちの45代天皇聖武)はまだ幼かったので即位できず、その母(草壁皇子の妻)が43代天皇元明として707年に即位し、715年に老いを理由に、日本史上唯一の女性同士の皇位継承として、娘(草壁皇子の子)に譲位44代天皇元正を即位させた。

 

 ご参考・・・生駒検定<全国版><問26>生駒の歴史

 

 

 

 

 

 

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