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生駒氏  

         <お断り:生駒氏にかかる事柄には諸説ある、不明確である、等のものもありますが、筋が通るように心がけて記述しました。た。              なお、随時更新の予定です。>

            参考(リンク):Wikipedia武家家伝 生駒屋敷(小折城)址に設置の解説板の解説文.pdf

                    /秋田の基礎知識 生駒領    

(1)平安時代、藤原氏一門の4つの家系(藤原四家ふじわらよんけ/ふじわらしけ)のうち北家が着実に勢力をのばし、藤原北家の藤原良房よしふさ<良房の漢風諡号しごう(諡号とは諡おくりなともいい、死後に贈られる名のこと)は、忠仁公>は、858(天安2)年、その外孫清和天皇が9歳で皇位につくとその摂政となった。皇族以外のもので摂政になったのはこれがはじめてであった。こうして良房は、人臣摂政 (皇族でない者が摂政になること)の先例を開くことで摂関政治成立への道を開いた。良房は、現在の生駒市である大和国平群郡生駒郷(生駒庄/生駒邑むら)に山荘を営んでここを根拠地とした。

(2)のち、良房の5代子孫、つまり、その孫左大臣時平の曾孫の信義が、藤原氏の荘園となっていた生駒庄(生駒谷にあった荘園)の荘官(荘園内の年貢徴収・管理人)となって生駒郷谷口村に土着し、やがて、その生駒藤原家は生駒氏・生駒家を称した(生駒藤原家が、生駒在住時代に生駒氏・生駒家を名乗り始めたのか、尾張に移り住んでから名乗ったのかは定かではないが、生駒氏は藤原北家の末裔といえる)。なお、現在の生駒市に谷口という地名が残っているのはここミラーである。

(3)生駒氏は、応仁の乱が拡大すると<>、身辺の危険を感じ、 戦禍を逃れて、1475~1476(文明7~8)年(このころに、生駒の地に立ち現れた鷹山氏と交代するように)、縁者(前野將右衛門)を頼って、交通の要所たる尾張国丹羽にわ郡小こおりに移住し<「生駒家系譜」抄.pdf一般社団法人 生駒屋敷 歴史文庫さんのHPより)ご参照>、生駒氏の名の通りの馬借ばしゃく業(馬を用いた広域輸送業)や油売り(あの斎藤道三はこの業で国盗りを実現する力をつけた)や灰(染め物の原料)売りで成功し、 商圏を飛騨から東三河にまで拡大するなど尾北の豪族(武家商人)として大いに勢力を張り、小折城ともいわれる小型の城郭である生駒屋敷を構え、尾張生駒氏三代の家宗(いえむね )の時に織田信康(信長の叔父)に仕えるようになり、のちには、信長に仕え、その経済力と情報収集力で信長を支えた。尾張平定、桶狭間合戦、犬山城攻め、西美濃攻めの諸戦略は、商圏の要であり多くの食客も往来するがゆえに諸国の情報が集まる情報基地でもあった生駒屋敷で練られ、その戦いの費用は生駒家によって賄われ、信長がいち早く大量に鉄砲を調達できたのも生駒氏のおかげであり、信長の天下布武への道は生駒屋敷が起点となった。藤吉郎(のちの豊臣秀吉)や蜂須賀小六が生駒屋敷に出入りしていたが、 藤吉郎が、信長が恋に落ちた家宗の娘の吉乃きつのに信長への仕官を求め仲介を依頼したことや草鞋を懐で温めて信長に差し出したことや蜂須賀小六との絆を強めたことなどは、信長が、吉乃との逢瀬を楽しみ、情報を入手するために頻繁に通っていた生駒屋敷(信長本拠の清洲城から約15kmにあり、馬を飛ばせば約1時間)でのエピソードである。なお、生駒屋敷に住み生駒の方と呼ばれた吉乃は、信長の嫡男・二男・長女をもうけた。

   <応仁の乱の拡大については、いこま歴史散歩と「生駒の歴史と文化」の1474(文明6)年の欄に<筒井方の秋篠氏が鳥見庄を焼き払う。高山八幡宮・法楽寺が戦火により焼失する。真弓寺は無事『大乗院寺社雑事記』>との記載があり、1482(文明14)年の欄には<畠山義就、義兄畠山政長を河内古市城に破り、大和への侵入を企てる。「平群谷・生駒谷・鳥見谷などの在所在所を、鷹山並に河内勢之を焼き払う。昨日も鳥見谷に於て合戦あり」『大乗院寺社雑事記・文明14年12月2日の条』>との記載があります(これらについては、「生駒市誌」の年表にも同様の記載あり)

(4)生駒氏 は、本能寺の変の後は豊臣秀吉に仕え、秀吉の九州征服時、讃岐国西部6万1000石の大名となり、四国平定後には讃岐一国17万3000石を与えられ、本城の高松城を築城し支城の丸亀城を改修、豊臣家三中老(五大老と五奉行との意見が合わないときの仲裁役)の一人とされ、また秀頼の補佐役としても重きをなした。

(5)関ヶ原の戦いでは、真田家と同様のやり方で家門の存続を図るため、生駒親正ちかまさは西軍に属す一方、その子の一正かずまさは東軍につき、父からの遺封(受け継いだ所領)を本領安堵されたが、その孫高俊たかとしのとき、徳川3代将軍家光在位の1640(寛永17)年、家臣の対立から生駒騒動と呼ばれるお家騒動が起こり、領地を没収され、出羽国矢島やしま(現在の秋田県由利本荘市矢島町)1万石に改易された(生駒領ご参照)。

(6)のち、財政上から封地分封(領地の分割相続により分家をつくること)して旗本(1万石未満)となり、交代寄合衆(旗本ではあるが大名なみの処遇を受け参勤交代の義務があった)として幕末に至った。幕末の秋田戦争で生駒氏は奥羽越列藩同盟を離脱して新政府方として戦い(秋田の戊辰戦争ご参照)、1868(明治1)年、親敬ちかゆきは新政府に忠誠を誓って矢島藩1万5000石を興おこし、廃藩置県後、男爵に列せられた。

(7)なお、近年、秋田の名産品として脚光をあびている生駒塗の創始者である生駒弘・親雄ちかおさん親子は、出身地は由利本荘市で、祖先は四国高松城主(藩主)の生駒公といわれている。また、女性アイドルグループの乃木坂46のメンバーで、1stシングルから5thシングルまでと12thシングルのセンターを通算約1年8か月つとめた生駒里奈さんも、由利本荘市の出身である(生駒里奈さんは生駒氏の末裔とのうわさがあるが、それについては、ご自身も所属事務所も何も表明をしていない)。

(8)古文献「物部文書」には、生駒の神話の準主人公の饒速日命ニギハヤヒのみこと>と同名の神が、由利本荘市の「鳥見山とりみやま(現在名は鳥海山)の潮の処(山上)」に降臨したと記されている(ご参照)。この点でも由利本荘市は生駒市と縁のあるところである。

  <神話や伝承でいう「饒速日命」(生駒神話の小辞典ご参照)は、「先発渡来人(早い時期に渡来した弥生人)」のことで、その「降臨」とは「渡来」を意味します(ちなみに、神武天皇は遅い時期に渡来した弥生人の子孫です)。「饒速日命の降臨地」(弥生人の渡来地)の伝承地は、生駒山地北部の哮ヶ峯たけるがみねや鳥海山(実際は、それらの麓の海の入江や海辺)以外にも全国各地にあります。

※お知らせ・・・この文書を基に、生駒検定<全国版> <問24>生駒ゆかりの諸群像(9)を作成いたしました。

ご参考・・・生駒検定<全国版><問26>生駒の歴史

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