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公慶上人  

                     参考:歴史秘話ヒストリア 奈良の大仏 奇跡の復活劇 ミラー

(1)鷹山氏の末裔である公慶上人は、3歳のときに、1648年に生まれた丹後から父とともに、奈良の興福院にある縁故をたとって奈良に戻り水門町に居を定め、13歳のとき東大寺に入り、公慶と称しました。成長し、鷹山氏が 参陣した戦い(東大寺大仏殿の戦い)の中で焼き落ちた大仏・大仏殿を再興することを決意し、1684(貞享元年)年、幕府に大仏修復(大仏を一から再建するのではなく、部分的に残っているものを利用して修復)を願い出ましたが、幕府は協力を拒否、そこで、幕府の許可を得て、全国での勧進(寄付募集)を開始し、翌年、修復に着手、その翌年には、父祖の故地の高山にある鷹山氏の菩提寺であった法楽寺(生駒市高山町/真言宗新義派/東大寺の別院として聖武天皇の勅願、行基の開基として創建されたとされる)で大仏修復成就の祈願をしました(「立願状」が同寺に残っています)。

(2)そんな中、元禄2(1689)12 月、松尾芭蕉が東大寺を訪れ、このときの大仏の様子を俳句に詠みました。

初雪やいつ大仏の柱立て

~初雪が大仏の頭にかかっている。大仏殿の再建はいつ実現することだろう。~

(柱立ては、建築の際、最初の柱を立てること)

(3)芭蕉が心配する中、着々と大仏の修復が進められ、ついに修復が完了、元禄5(1692)年、大仏開眼供養が盛大に営まれました(38日から48日まで1カ月間。12800人の僧が参列。期間中、30万を超える人々が奈良を訪れ、奈良全体が未曾有の賑わいをみせました)。

(4)次は、大仏殿の再建です。ここに至って、上人の功が認められ、将軍徳川綱吉からの支援を受けることがかない、宝永2(1705)313日、大仏殿の屋根を支える大虹梁だいこうりょう”(虹のように中央を反り上げた梁が柱上に据えられるという最も重要な工事までこぎつけ、翌月の410日、大仏殿上棟式じょうとうしきが執り行われました。

(5)しかし、彼は、大仏殿の再建が事実上幕府の事業となったにもかかわらず、民衆と大仏との“結縁”の機会を広めるため日々勧進して再建成就まで横になって寝ないなどの無理がたたって、同年712日、58歳で幕府に感謝の意を伝え病を得た綱吉の母を見舞うために来ていた江戸で客死し、東大寺に運ばれ、その近在に埋葬されました。上人の死を弔うべく事業は進められ、ついに宝永5(1708)年、大仏殿の再建はなり、翌年の宝永6(1709)年、落慶法要が大規模に執り行われました(321日から18日間。期間中、18万もの人々が奈良を訪れました)。

(6)東大寺の公慶堂に上人の座像が安置されていますが、その両目は赤く彩られています。生前「大仏殿が再建されるまでは横になって眠らない」と誓ったためだと伝えられています。<「生駒の歴史と文化」より引用>

(7)思えば、生駒ゆかりの人物(行基)が心血を注いで建立した大仏・大仏殿を、生駒ゆかりの人々(鷹山氏)が崩壊せしめ、そして、生駒ゆかりの人物(鷹山氏の末裔たる公慶上人)が生涯をかけて再興し、先祖の誤りの大きな傷あとを命と引き換えに回復したのでした。また、奈良を「世界の奈良(日本全国からはもちろん、世界各地からも人々を呼び寄せる奈良)」たらしめているのは東大寺の大仏・大仏殿です。文字通りの命を懸けた公慶上人の行動がなければ、今の奈良はなかったのです。また、今日の日本のアイデンティティーを形成しているのは富士山と東大寺の大仏です(と言っても許されるでしょう)。それを思うと艱難辛苦を乗り越えて偉業を達成した公慶上人への感謝の念が沸き起こってくるのを止めることができません。  

※お知らせ・・・この文書を基に、生駒検定<全国版> <問24>生駒ゆかりの諸群像(12)を作成いたしました。

ご参考・・・生駒検定<全国版><問26>生駒の歴史  

 

 

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