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「生駒山の飛火(とぶひ)が岡」の「高見の烽(とぶひ)」

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(1)万葉集 巻6-1047の長歌には「射駒山いこまやま 飛火が嵬たけ」という地名が出てくる。現代文にすると、「生駒山の飛火が岡」である。

(2)710年に都が藤原京から平城京に遷されたことに伴い生駒山の飛火とぶひが岡に設置された、のろし(烽火・烽燧・狼煙)を上げる施設である烽(飛火やのろし台ともいう)が高見の烽である。飛火が岡は烽の設備のある高地のことで、射駒山(現生駒山)のそれは、暗峠(455m)の北側すぐの天照山てんしょうやま.jpg(510m)であったとされている(現在の生駒山上の旧天文台跡地にあったとの説も捨てがたいが)。現在も天照山上に残されている石組は高見の烽の遺構と考えられている。また、天照山は江戸時代から近代に至るまで、堂島米市場の米相場を東海地方に伝達する「旗振はたふり(米相場を旗を振って伝達するための中継点の山)」であったことも、「高見の烽は天照山上にあった」との説を支持している。

(2)続日本紀の和銅五(712)年の記事に「河内の国高安の烽を廃して、はじめて高見の烽及び大倭の国春日の烽を置き、以って平城に通ぜしむ也」とあり、712年より、高見の烽が、対馬・壱岐・筑紫方面から伝達されてきたのろしを春日の烽(若草山や飛火野等が推定地)に伝達することで、平城の都に大陸・半島方面の情報を知らせることになった(これに伴い、のろしを飛鳥の都方面に伝達していた高安の烽は廃止された)。平城京と生駒山上との直線距離は約11km、途中に立ちはだかる山はない。

  烽は、663年の白村江の敗北によって高まった、飛鳥の都へ緊急の知らせを伝達せねばならないという対唐・対新羅の軍事上の必要性から664年に置かれた(日本書紀の天智紀に「この年、対馬・壱岐・筑紫国などに防人と烽をおいた。」と記されている)。なお、667年には、国土を守る最前線の対馬には金田城 、瀬戸内海の制海権を守るために屋島には屋嶋城、都を守る要衝の高安山には高安城が築城されたが、その場所はいずれも飛火が岡(烽の設備のある高地)であった(ようだ)。 

(3)794年に都が平安京に遷されると、それに伴い、796年に牡山おとこやま(現京都府八幡市男山)の烽が置かれ、そのころに高見の烽は廃止された。

(4)参考資料・・・奈良歴史漫歩 No.063 / 難波京の防衛システム  /山と旗とのろし台

(参考)古代の烽

 ①烽が対馬から都に伝達されたルート.jpgこの番組の一場面)<出典元

 ②対馬→壱岐→筑紫→〇〇→〇〇→屋島→〇〇→難波(現真田山?)→高安・高見・牡山→飛鳥京藤原京<〇〇>・平城京<春日>・平安京<〇〇> 

 ③烽については「養老軍防令」(718年)に規定があり、約 20km ごとに設けられたこと。昼は煙を焚き、夜は火を放ち、伝達方向の烽(前烽)が反応しなければ、走って行って伝えるべきことなどが記されている。

(参考)生駒山地旗立山.jpg(486m)には、南北朝時代に見張り場があったとされる。 

(付記)以上のことを基に、生駒検定<全国版><問13>歴史を見つめてきた暗峠を作成いたしました。

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